【記録04】教室に入れない日々。会議室登校と塾の記憶

4年生のスタートは、出だしのつまずきから始まった。
4月の初めに風邪を引いて休んだことで、新しい学習ルールがわからず、娘は不安から「行けない」と言うようになった。
時間を作ってもらった三者面談で先生から説明を受けても、一度掛け違えたボタンはなかなか元には戻らなかった。

思えば娘からの学校はもう無理、という無意識化でのサインだったのだと思う。
あの時、もっと早く学校に見切りをつけておけばよかった。

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余裕のない学校現場

小4の担任は、体育大学を卒業したばかりの男性だった。
いつも顔が焦っていて、授業中もたどたどしさがあったようだ。
理科の授業で「月の満ち欠け」について間違えて説明していた、と娘が教えてくれたこともあった。

そんな先生だったけれど、「学校の途中まで迎えに行きますよ」と一生懸命やってくれていた。
けれど娘にとっては、「時間通りに行けるかわからない」というプレッシャーが負担になっていた。

小3の担任から引き継ぎを受けていたようだが、そもそも二人はタイプが違う。
そのアドバイス自体が娘には合っていなかったのだと思う。

完全な人手不足で、担任を回すだけで精一杯の公立学校の現状。
初任の気の優しい先生が、こんなにも手のかかる子の担任になってしまって申し訳ない、という思いがあり、わたし自身も踏み込んだ相談は何もできなかった。

それどころじゃなかったのは娘もなんだけど。
でもあの時遠慮せずに言ってもなにかが変わったわけではないんだろうなとも思う。

小1の時の先生がかなりプロフェッショナルだったんだって、しみじみ思い始めていた。

会議室という名の放置

掃除の時間に男子とぶつかり、怖い思いをしたことが決定的な理由となり、娘はさらに学校へ行けなくなった。
学校側からの折衷案は「会議室登校」だった。
午前中の2時間ほどを職員室横の会議室で過ごす。
わたしも付き添う必要があり、仕事の調整もあったので、心身ともにすり減っていくような気持ちだった。

会議室にいても、誰かが勉強を教えてくれるわけではない。
ただの「放置」だ。

たまにテストのプリントが渡されて解くくらい。
それでも、塾で先取り学習をしていた娘は、学校の授業を受けていなくても問題なく解けてしまっていた。

今振り返れば、ただ学校に行き、会議室に座っているだけの時間はあまりに無駄だったと一刀両断できる。
けれど当時は「いつか教室に戻らなければならない」という思いがどこかにあり、その義務感だけでなんとかやり過ごしていたのだと思う。

受験を見据えた勉強と、塾での違和感

学校に行けない分、小学校の生活に見切りをつけ、通えそうな中学進学を見据えた勉強を塾で始めた。
そこでの娘は、国語のテストで少し抜きん出た結果を出すことがあった。

特に勉強をしていなかったのに、テストでの解き方を見た先生からは
「これほど早く、正確に黙読して処理できる子は初めて見た。桜蔭に行けますよ」と褒められた。

しかし、親としては素直に嬉しくても、当の娘は「できなかったらどうしよう」という不安から、テストを受けること自体をひどく嫌がった。
なんとか教室に入って受ける、というギリギリの精神状態だった。

その頃は、私立の校風の良い中学校にさえ行ければなんとかなると思っていた。
けれど、今はそうじゃないとわかっている。
小学校という「地続き」の場所で今通えていないのだから、環境が変われば劇的にすべてが解決するはずもない。

もし塾が本当に娘に合った場所で、楽しく受験勉強を続けられた未来があったとしても
その先に待っていたのは膨大な量の詰め込み学習をこなす日々だ。

学力は同じでも、毎日塾に通える気力や体力がある子たちが集まる中学に入っていたら、結局そこで不登校になっていた可能性も大きい。

そう考えると、受験という道を選ばず、立ち止まったことは正解だったのだと思う。

結局その塾も、競争への抵抗感や、女子のリーダー格の子との居心地の悪さが重なり、
4年生の終わりで辞めることになった。

引き止められはしたものの、メンタル面のフォローは皆無で、
子どもの細やかな心の動きを理解できる大人はそこにはいなかった。

学校でも塾でも、彼女の繊細な心に寄り添い、適切に導いてくれる環境は見つからないまま、時間だけが過ぎていった。

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