6年生という1年間は、振り返ればジェットコースターのような日々だった。
多くの家庭が中学校への準備期間を意識しつつ過ごすこの1年。
私もどこかで「普通のレールに戻れるのではないか」という期待を捨てきれずにいた。
「好き」を大切にする、はなまるエレメンタリースクール
5年生の終わりの春休み。
学校への不信感から6年生からは「はなまるエレメンタリースクール」という選択肢を選んだ。
「好きを大切にする」という方針や、少人数制の手厚い環境のフリースクール。
この場所なら娘の道が開けるのではないかと考え、当時はまだ自分から決定することが難しかった娘を少し強引に説得して通わせた。
今思えば、親の側の焦りだったのかもしれない。
4月、5月と、娘ははなまるへ通い続けた。
しかし、本人は毎日「行きたくない」と言っていた。
新しい環境への適応や、娘自身の特性を考えれば当然のことだったのかもしれない。
結果として娘は、「あちら(はなまる)に行くより、学校の方がまだマシだ」という結論に達した。
嫌なことははっきりしていても、「こうしたい」という能動的な行動の部分はいつも曖昧だった娘にとって、これが自分の意思をはっきりと示した瞬間だった。
6月からは、再び学校への登校を選ぶことになった。
正直なところ、当時の私は「本当に学校に行けるの?」と半信半疑で、どこか疑心暗鬼な気持ちも拭えなかったのだけれど。
はなまるエレメンタリースクールについては、フリースクールのカテゴリで書こうと思う。
6年生の担任との出会い
6年生の担任は、20代後半の女性。
小柄で元気いっぱい、やる気に満ち溢れた、明るい先生だった。
40代の私の目から見ると――少し言い方が良くないかもしれないが――
彼女は思慮深いタイプとはいえず、そのあまりのパワフルさに娘が引いてしまわないかと心配もした。
けれどそんな心配をよそに、娘は先生のその真っ直ぐさと向き合うことにあまり抵抗を感じていなかったようだ。
担任は決して上から目線で物事を押し付けることはなく、常に娘と同じ目線で向き合ってくれた。
何事にも一所懸命な人だった。
5年生の担任と比べて、決定的な違いはそこだった。
技術や経験が浅くても、その熱量は子どもに伝わるのだと思う。
最初は「娘とは苦手なタイプだろうな」と見ていた私にとっては驚きだったが、その真っ直ぐさが娘にとって何よりの安心感となっていたようだ。
修学旅行での「ありふれた時間」
花まるよりも学校にしたいと言った理由のひとつとして、日光への移動教室があった。
むすめは、移動教室の目玉、日光東照宮に行きたいと言っていた。
友達と一緒に思い出を作りたい、などではなく東照宮に興味があったらしい。
今思えば、ASDっぽいなと思うが、、。
家族旅行で行ってもいいのになと思いつつ、学校に通うきっかけになるのであれば、と
親としてはうれしいことであった。
担任が移動教室への参加条件として出したのは、「教室に入れる時は入る」「班の活動に参加する」というものだった。
学校だって教育活動の1つとして準備していくのである。
突然当日だけ行く、というのも無理な話。当然である。
むしろ、「教室に入れる時は入る」という低い設定には先生方の許容の広さを感じありがたかった。
娘はそれに応え、少しずつ教室に入り始め、授業にも参加するようになった。
幼稚園の頃から波長が合う友人と班を組ませてもらったこともあり、少しずつクラスに馴染んでいった。
学校での出来事を、毎日事細かに教えてくれるようになったのもこの頃だ。
読書感想文が区の文集に選ばれるという嬉しい出来事もあった。
娘は、確実に自分の力を発揮していた。
移動教室当日も、配慮してもらいながら班の活動に参加していたようだ。
帰ってきてから、移動教室の夜の様子を聞かせてくれた。
誰と誰が好きだといった恋バナで盛り上がったり、部屋の窓際の一段高い場所が「幽霊が出そうで怖い」と騒ぎになったり。
結局、娘が「別に怖くないけど」と言ってその場所を広々と独り占めして寝たという話など。
そんな、修学旅行ならどこにでもあるような「ありがちな夜」の話を聞いて、私は胸がいっぱいになった。
普通の子を育てている親にとっては、何でもない日常のワンシーンかもしれない。
けれど、当時の私にとっては、それがこの上なく眩しいものだった。
学校という場所に馴染み、友人たちと同じ空気を吸い、笑い合う。
そんな経験を娘ができたことが、何よりもうれしかったからだ。
今こうして振り返ると、あの夜の光景がまるで信じられないくらい遠いもののように思える。
もう二度と、あんなふうに学校の延長線上にある思い出を作ることはないのかもしれない。
そう思うと、あの日、娘がその場所にいられたこと自体が、私にとって大切な奇跡のような記憶になっている。
小学校生活最後の学芸会
移動教室を経て少し自信をつけたのか、夏休み明けの学芸会で娘は周囲を驚かせる行動に出た。
人前で目立つことや、誰かに評価されることを極端に避けてきた娘が、ピアノ伴奏のオーディションに自分から手を挙げたのだ。
実は、先生からは「アコーディオンをやらない?」と何度も声をかけられていた。
「当日休んでも困らない楽器だし、他にやる人がいないから」という理由で勧められたらしいけれど、先生なりの配慮もあったのだと思う。
欠席による周囲への影響や、ピアノ伴奏という大きな役が娘のプレッシャーになることを、先生も心配していたのだろう。
「本当に大丈夫?」と何度も念押しされていたようだった。
過去の学芸会では、オーディションを避けて言われるがままの配役で過ごしてきた娘が、今回は違った。
自分からピアノ教室の先生に「この曲をどうしても弾きたい」と相談し、事前にしっかり練習をしてオーディションに臨んだのだ。
その姿を見て、私は少し戸惑いつつも、娘が自分から「やりたい」と口にして行動したことをうれしく感じていた。
オーディションが終わった頃、他の保護者から
「うちの子がね、娘ちゃんの伴奏がダントツで上手だったって言ってたよ。多数決でも満場一致だったんだって」と教えてもらった。
これでもう大丈夫だ、ここから少しずつ経験を積んでいけば、学校にも馴染んでいけるはずだ。
そう願っていた。
実際はまだ毎日の送り迎えが必要で、先生と連絡を密にとってフォローしなければならない状態だったけれど、この小さな前進が、何よりの希望だった。
けれど、ちょうどこの時期は、秋の運動会の練習も重なっていた。
娘はみんなと一緒に体を動かすことに抵抗があり、体育はずっと見学してレポートを書いて過ごしていた。結局、運動会には参加することができなかった。
そうした周囲の空気やプレッシャーも重なったのだろう。
学芸会の練習が進むごとに、娘の元気は少しずつ失われていった。
ぽつぽつと参加はしていたものの、帰宅してすぐに寝てしまう日が増え、次第に学校へ行けなくなってしまった。
クラスの授業に出るだけで、エネルギーを使い果たしていたのだろう。
当時の私は、「学校に行く元気がなくて動けない」という状態が、正直よく分かっていなかった。
それは先生も同じだったと思う。
自分で決めたことなんだから、頑張って行くんだよ、と当時の私は娘を励ましてしまっていた。
今振り返ると、あの時の娘にとってはそれがどれほど酷なことで、申し訳ないことをしてしまったな、と胸が痛む。
予行練習の日、娘は朝から学校へ行くことができなかった。
学校からは「最終予行に参加しないと、学芸会の本番には出席させられない」というルールを告げられていた。
そのルールが、娘にとってどれほどのプレッシャーだったかと思う。
もちろん、学校側の立場やルールもよく分かる。
それに、もしオーディションで選ばれなかった子やその保護者がこの状況を知ったら、
「練習に出られないなら、うちの子に弾かせてほしかった」と納得がいかない気持ちになるのも当然だと思う。
はたから見たら、練習にも行けないのに本番だけ出たいなんて、単なる我が儘だと思われても仕方のないことだった。
誰もが納得する形で進める難しさの中で、それでも「どうしても本番に出たい」と願う娘の気持ちもあり、私自身の心の中もずっと複雑だった。
そんな中、先生がわざわざ家まで娘を迎えに来てくれた。
先生のおかげで、娘はなんとか途中登校で最終予行練習に参加することができ、本番への切符を繋ぐことができた。
そうしてギリギリの精神状態のなかで迎えた本番、ピアノの前で見せてくれた演奏は、感情が豊かにあふれ出るような素晴らしいものだった。
無事に終えられたことに心から安堵したけれど、その後の娘は、心身ともに限界に近いように見えた。
1月。卒業まで。最後の区切り
年が明けて1月になると、クラスの雰囲気が少し変わった。
中学受験を控えた子たちが学校を休むようになり、教室がいつもより静かになったのだ。
そんな変化の中でも、娘が再び学校へ戻ることはなかった。
周りの受験ムードをなんとなく感じながら、私の心の中には、少し切ない気持ちがよぎっていた。
「もし、娘も中学受験をしていたら、今頃がその本番だったんだろうな」と。
今振り返れば、あの状態の娘が受験を乗り越えられたとは到底思えないし、どのみち中学で不登校になっていただろうと冷静に思える。
けれど当時はまだ、どこかで往生際悪く考えてしまっていた。
「受験をして、校風の自由な学校にさえ行けば、もしかしたらなんとかなっていたかもしれないのに」と、別の未来を重ねて憂鬱な気持ちになっていた。
卒業式が近づいても状況は変わらず、娘は式の予行練習にも参加できずにいた。
このまま本番を迎えるのは難しいということで、先生が配慮してくださり、放課後に先生と私と娘の3人だけで予行練習を行うという、少し特別な形をとることになった。
誰もいない体育館。
先生の指示に合わせて、娘が卒業証書を受け取る所作を静かに確認していく。
クラスのみんなと一緒の華やかな練習ではなかったけれど、先生が娘のためだけに時間を作って真剣に向き合ってくれていることが、ただありがたかった。
張り詰めた空気の中にも、どこか温かいものがある時間だった。
そうして迎えた、卒業式当日。
式本番には、娘もみんなと一緒に参加することができた。
証書を受け取り、式が無事に終わったとき、私は肩の荷が下りるような、ホッとした気持ちになった。
けれど、式が終わった後の校庭での写真撮影や、教室での懇親会といった「お祝いの余韻」の輪に、娘が長く残ることはなかった。
クラスの友達や保護者たちが名残惜しそうに話し込んでいるのを横目に、
娘は「疲れたから帰る」と静かに言い、私たちは早々に学校を後にした。
帰り道、通い慣れた通学路を娘と夫と歩きながら、私は何とも言えない気持ちを抱えていた。
結局、みんなと同じような普通のレールに戻ることはできなかった。
でも、彼女なりにあの環境のなかで、限界まで頑張って小学校生活を全うしたのだということも、痛いほど伝わってきた。
あの1年は、娘が娘なりの方法で、6年間の小学校生活にそっと区切りをつけた時間だったのだと思う。

